五ツ又自治会小史

 ■表紙
 ■五ッ又地区の航空写真
   昭和41年
   平成7年
 ■自治会発足40周年によせて
   川越市長 船橋 功一
 ■発刊を祝して
  高階支会会長 沢田 光
 ■発刊にあたって
  自治会長 増田 義夫
 ■創立四十周年によせて
  元自治会長 柿添 光男
 ■四十周年を顧みて
   自治会長 長谷川 福平
 ■五ッ又のあゆみ
  1. 草創記
   五ッ又の黎明
   自治会の発足
   五ッ又地区の状況
  2. 発展期
   五ッ又地域内外の変化
   五ッ又自治会の独立
   高階地区の発展状況
   五ッ又老人親和会誕生
   自治会の活動
  3. 安定期
   自治会館の建設
   自治会の活動
  4. 今後の自治会
   道路と環境の整備
   高齢者等の支援
 ■主な出来事
   五ッ又自治会館の建設
   井戸水から市水道に
   自治会下水道部設置
   山車・御神輿について
 ■自治会内の組織
   五ッ又軟式野球部
   五ッ又壮年ソフトボール部
   五ッ又ママさんバレー部
   五ッ又女子ソフトボール部
   五ッ又親和会
 ■五ッ又自治会年表
 ■あとがき
   記念誌作成委員長
    新村 幹夫


五ッ又の歩み   草創期
一.五ッ又の黎明
 昭和三十五年小田急不動産部が、現五ッ又自治会館前の市道東側約四千坪(現三・四区)を、第二次として南西側約六千坪(六・九・十区)の林野が開発造成され、大栄土地開発(株)から百二十四区画(約百五十戸)の分譲が行われた。 この地域は、昭和三十年川越市に合併された旧高階村の南西端で旧福原村に接し、東上線新河岸駅から約一キロ強にあり、川越市の東京寄り最南端に位置する。

 霧吹きの里、竜が丘とか埼玉の軽井沢と言われ、遥か西方に秩父連峰を南西に白銀の富士が望まれ、周辺は、平地に点在する松・くぬぎ・けやき、栗の潅木林のほかは一面が畑であった。春には若草・若葉・あざみ等が咲き乱れ、秋は萩・すすき・りんどう等が物のあわれさをさそい、木の間がくれに見る農家が古き武蔵野の風情を添え、一幅の画を思わせた早春に、ひばりの声を空遠く聞きコジュケイが群がり戯れ、夏はカッコウ鳥の森から林と渡り歩く声、秋は鈴虫・松虫・くつわ虫と名も知らぬ虫々が住む人々に桃源郷を思わせた。

 この地が宅地造成された当時、古くから砂新田に住んでいる人々は、付近をオトウカ山と称していて住宅の出現に驚いていた。また、新河岸駅や国道二五四号線および旧川越街道から、砂久保・今福・所沢街道へ至る市道と五ッ又自治会館前の市道等が、五交差(現 かわむら文具店・カトレア美容室横)していることから五ッ又とも言われていた。
※オトウカ山 川越地方の方言でキツネやタヌキがいるという山

 分譲地も大字砂新田字五ッ又と字武蔵野であり、昭和三十六年には僅か二十戸ほどで、行き交う人もまばらであったが、三十七年に入り日毎に新築家屋もふえ三月には二十九戸と集落らしくなってきた。この頃から新開地での不便さの解消や共通目的実現のため、ここに住む人々の親睦と自主的な解決を痛感する気運が生まれた。
 当時は、東上線も朝夕のラッシュ時を除き日中は二十分間隔で二両程度の運行であり、駅も跨線橋がなく出改札口から直接線路を渡りホームに行き来していた。また、現在の東武ストアー付近は、引込み線と貨物倉庫が並ぶ駅構内であった。
駅前からの道路はすべてが砂利道であり、公衆電話も全く無く、駅前には、白川自転車預かり兼たばこ店・池留酒店・島田洋品店ぐらいで、踏切のそばに魚屋があった。  旧街道沿いには、毎日新聞店・その向かい側に高階生協・高階幼稚園・その斜め向かいにたばこ店・高階中学校手前の鈴木米店などが利用されていた。
二.自治会の発足
 分譲地内の柿添光男・小林信雄・岡田小藤治・石川忠蔵・宮田和雄氏等の有志により自治体の組織化が計られ、三十七年六月から柿添光男氏を委員長に、園畑春夫・宇田川泰二郎・南沢宏之・新村七郎・小林信彦の六氏により、親睦を目的とした新しい村作りの組織委員会ができた。種々検討を重ねて七月末には自治会規約原案が完成、総会を三十七年八月一日に開催し、五ッ又自治会が発足・新規約に基づき次の各氏が役員に選任された。

  会 長 新村七郎
  副会長 柿添光男
  会 計 南沢宏之
  理 事 園畑春夫、宇田川泰二郎、宮田和雄
  監 査 小山田文四郎、大久保進平

 この時期、川越市では旧市内に町内会、合併の九か村には区制を残し区長が置かれ行政の補助がなされていた。砂新田も旧高階村の藤間・寺尾・砂・新河岸とともに、砂新田地区として、区長・区長代理・字議員・伍長等の役員によって運営され、字費も徴収されていた。
 自治会は発足したが、川越市や砂新田地区からは単独の自治会として扱ってもらえず、石川忠蔵・南沢宏之の二氏が字議員として砂新田地区に参加した。その後、三十八年六月に、砂新田地区から当五ッ又自治会を含む南部の地域が、分離されて砂新田南地区となり、区長に自治会長の新村七郎氏が選任され、字議員は柿添光男・南沢宏之氏となった。四十年からは、区長に南沢宏之氏、字議員が柿添光男・宇田川泰二郎氏となった。
三.五ッ又地区の状況
 上水道は井戸水で、各戸で掘ったものとは別に、土地の分譲会社が分譲地の最東端に設置した共用井戸があり、これから電動ポンプで汲み上げ、各戸に供給する簡易水道があった。井水管理も自治会が行ったが故障が多く、毎月何回か断水(長いときには二〜三日)となり、家庭の主婦を困らせた。井戸の修理は石川忠蔵氏や役員の家族などが協力したが、市内の富士設備工業、後に浅羽ポンプ店に修理・点検を委託していた。また、世帯の増加で水不足となったので、土地分譲会社に折衝し、百五十尺(四十五m)まで掘削したが十分とはいえなかった。
 下水道については各戸において吸込槽を設備し、トイレについてはバキュームカーによる汲取りが主流であった。
 農業地域に出現した住宅のために生ごみ類の収集もなく処置に困っていたが、砂新田地区の区長で農家の小川氏に回収を願い、十日に一回の割合で養豚の飼料等として収集してもらったが、小川氏の都合で約半年で中止のやむなきに至り、市に要望の結果毎週一回の回収が実現した。
 道路については地域内の発展と電話の加入者増に伴い、中央の市道(幅員二、八m)は両端に電気と電話の電柱が交互に立ち並び、大型自動車や火災発生時に消防自動車の出入が困難なため、当時の柿添自治会長と役員が道路横の地主に実情を説明し了解を得て、東電と電電公社に折衝して道路幅の外へ電柱の移設ができた。
 また、中央の市道は自動車等の交通量が多く道路の損傷も激しく、補修のために市の土木課から年間三、四回砂利の配分を受け、各会員が総出動して道路の補修に協力し、終了後に空地でお茶を飲みながら雑談等をしていた。
 秋になると火災予防のために空地のすすき等の刈込を会員総出で行い、環境整備と意思の疎通を図った。
 歳末には毎年約十日間夜八時と十時からの二回にわたり、会員二名づつ組んで防犯・防火のために夜警を実施した。
 中央の市道から横に入る私道に、会員からの寄付により桜・柳・イチョウの三種の苗を植えて間町並み作りをして、花の咲くのを楽しんだ。しかし、その後の上・下水道工事や私道の採納等により、数本が残るのみで往時の面影はない。当初分譲地内には防犯灯も東側と西側に各二灯しかなく、会内を明るくするため毎年自治会の予算等で増設されてきた。また、消火栓もなく防火用水確保のために、消防関係機関に要望して東側と西側に各一ヶ所の貯水槽が設置された。
 毎年、二月から三月にかけての春一番による砂塵、五月の薫風とともに臭う肥料や牛・豚の牧舎の臭いに閉口し桃源郷の夢も半ば破られた。

五ッ又自治会の世帯・人口の推移
年別 世帯数 人口(人)
昭和50年(1975) 657 2305
昭和55年(1980) 726 2578
昭和60年(1985) 808 2740
平成2年(1990) 943 3157
平成7年(1995) 1013 3128
平成12年(2000) 1067 3087
平成13年(1995) 1070 3080
注:昭和50年は7月1日現在 その他は各年とも4月1日現在