昭和三十五年小田急不動産部が、現五ッ又自治会館前の市道東側約四千坪(現三・四区)を、第二次として南西側約六千坪(六・九・十区)の林野が開発造成され、大栄土地開発(株)から百二十四区画(約百五十戸)の分譲が行われた。 この地域は、昭和三十年川越市に合併された旧高階村の南西端で旧福原村に接し、東上線新河岸駅から約一キロ強にあり、川越市の東京寄り最南端に位置する。
霧吹きの里、竜が丘とか埼玉の軽井沢と言われ、遥か西方に秩父連峰を南西に白銀の富士が望まれ、周辺は、平地に点在する松・くぬぎ・けやき、栗の潅木林のほかは一面が畑であった。春には若草・若葉・あざみ等が咲き乱れ、秋は萩・すすき・りんどう等が物のあわれさをさそい、木の間がくれに見る農家が古き武蔵野の風情を添え、一幅の画を思わせた早春に、ひばりの声を空遠く聞きコジュケイが群がり戯れ、夏はカッコウ鳥の森から林と渡り歩く声、秋は鈴虫・松虫・くつわ虫と名も知らぬ虫々が住む人々に桃源郷を思わせた。
この地が宅地造成された当時、古くから砂新田に住んでいる人々は、付近をオトウカ山と称していて住宅の出現に驚いていた。また、新河岸駅や国道二五四号線および旧川越街道から、砂久保・今福・所沢街道へ至る市道と五ッ又自治会館前の市道等が、五交差(現 かわむら文具店・カトレア美容室横)していることから五ッ又とも言われていた。
※オトウカ山 川越地方の方言でキツネやタヌキがいるという山
分譲地も大字砂新田字五ッ又と字武蔵野であり、昭和三十六年には僅か二十戸ほどで、行き交う人もまばらであったが、三十七年に入り日毎に新築家屋もふえ三月には二十九戸と集落らしくなってきた。この頃から新開地での不便さの解消や共通目的実現のため、ここに住む人々の親睦と自主的な解決を痛感する気運が生まれた。
当時は、東上線も朝夕のラッシュ時を除き日中は二十分間隔で二両程度の運行であり、駅も跨線橋がなく出改札口から直接線路を渡りホームに行き来していた。また、現在の東武ストアー付近は、引込み線と貨物倉庫が並ぶ駅構内であった。
駅前からの道路はすべてが砂利道であり、公衆電話も全く無く、駅前には、白川自転車預かり兼たばこ店・池留酒店・島田洋品店ぐらいで、踏切のそばに魚屋があった。
旧街道沿いには、毎日新聞店・その向かい側に高階生協・高階幼稚園・その斜め向かいにたばこ店・高階中学校手前の鈴木米店などが利用されていた。