自治会内の組織
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一.五ッ又(軟式)野球部 |
五ッ又軟式野球チームの誕生は、昭和四十一年に発展途上の自治会へ他の地区から親善試合を申し込まれ、急遽チームを編成したのが切っ掛けであります。選手は戸主に混じって学生も一人いました。対外試合をするには常設のチームが望ましく、ポジションの決まった練習を欠かさず、用具が常備されていなくてはなりません。当初は、銘々不揃いののユニホームと持ち寄った用具で試合に臨みました。
試合の後は、福田屋酒店前の林が談笑の場所になり、チームの結成へと話が進みました。チームが産声をあげた時分はまだ自治会館もなく、武蔵野の名残の雑木林が話し合いの場所でもありました。時は、昭和四十一年、総監督にかつてノンプロでスタルヒンとバッテリーを組んだことのある新村七郎翁にお願いし、互選で岡本清友監督、野田貢主将でスタートしました。
当時、正式な名称は確定しておらず、「五ッ又野球クラブ」となっていて、通称「野球部」と言われていました。月々会費を徴収していましたが、選手層が薄いために時々部員外の人にも臨時に出場してもらいました。ユニホームには、「KAWAGOE」とだけ入れました。中学校のグランドが空かないと、企業所有のを借りるのに四苦八苦しました。
野球部は、元々親睦の意識が濃かったので、青木隆衛・宮田和雄両氏と自治会長の南沢宏之氏や長谷川福平氏の協力で、五ッ又在住の旅行希望者を加えた年一回の旅行を計画しました。第一回は、昭和四十五年長野県湯田中温泉へ行きました。翌年からはバス旅行になり、発車後は直ちに酒宴が始まりました。イイ児・フツウの児はもの静かなのに、常連のワルイ児に酒が効き出すと、ガイドをからかい始めて爆笑・騒然。ガイドは腹を抱えて笑い通し、蹲(うずくま)って声も出ないこともありました。 昭和四十七年四月九日改定の「五ッ又地区会規約」第二十五条には、「本会に野球部・バレー部を置く。」と明記されていますから、その頃から任意のクラブから補助金を戴いて、自治会に所属したことになります。
昭和四十九年、野球部は、川越市の男子三十五歳以上の「壮年ソフトボール」創立の呼びかけに応じて、野球部員をそのまま壮年ソフトボール部へ移行し、解消しました。
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二.五ッ又壮年ソフトボール部 |
昭和四十九年、川越市の壮年ソフトボール部創設の呼びかけで、五ッ又(軟式)野球部が移行(会費など一切)して、壮年ソフトボール部が誕生しました。五ッ又地区住民も次第に増加し、軟式野球部員より中高年の選手の集め易いこともあって、練習も常時部内の対抗試合が可能になりました。グランドも荒川河川敷を申し込んで使用できる様になりました。
野田貢監督・三浦正義主将でスタートしました。当初は、どこのチームも共通の悩みの軟式野球の技巧から脱却できず、戸惑いました。しかしソフトボール経験者がおいおい加入するにつれて投手陣も固まると、市内でも頭角を現し始めました。
昭和五十六年頃から、本格的な練習と選手の育成を行い、勝負にこだわるようになりますと、獅子が目を覚ましたのでしょう、現在は市内トップクラスの実力チームになりました。練習の傍ら、年間約三十試合をこなしています。
五ッ又壮年ソフトボール部は、正しく五ッ又お父さんたちの健康増進のクラブであります。 益々の成長を祈念してやみません。 主な大会は ○川越市民大会 ○川越市体育大会 ○高階大会 ○球友会リーグ戦(高階地区) ○郷土をつくる会大会。
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三.五ッ又ママさんバレー部 |
五ッ又ママさんバレー部が形成される前に、僅かながら幼芽の期間がありました。開発されて疎らな五ッ又住宅地から、昭和三十七年から三十八年に砂新田のママさんバレー部へ練習に通っていた一主婦がいました。その後移住してきた人たちは、その宮田光江さんのバレーを知り、五ッ又周辺の空き地で一緒に練習をする様になりました。趣味と健康維持のために始めたバレー・グループが、後に柿本勇教諭やその後青木隆衛氏が指導するにつれて、技術はメキメキ向上し、川越市内注目のチームになりました。
当初和やかな主婦グループが急激に力をつけて行きましたので、部員もいつから部として組織化されたかは、全く覚えがないと言います。練習もいつしか中学校の夜の体育館で週二回になり、月一回は川越市体育館で練習とスケジュール化されますと、市内で押しも押されもしない強力なチームに成長しました。
川越市の第一回ママさんバレーボール大会では、柿添知子・勝目トシ子・長谷川栄子・宮田光江・安部晶子・玉木龍子・市川多美江・市川絹子・篠原治子・黒沢みさほ・鶴田寿美・岡本幸子の各氏を抱える五ッ又チームは、準優勝。その後選手も補強をされ、強豪宮元町チームと絶えず覇権を競いました。しかし、遂にその時がやって来ました。恒例の秋の市の大会で、連続七回優勝の偉業を成し遂げました。 昭和四十四年、四十五年の県民体育大会には、当チームからも選手を送り、川越市チームとして優勝の栄冠に輝きました。
五ッ又地区住民もバレー部への応援に出掛けました。選手たちは、川越市の魔女チームに成長したのも、みなさんの温かい声援があったればこそと、今も話し合っています。 その後部員の補充が続かず、数年前に解散、栄光の幕を閉じています。
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四.五ッ又女子ソフトボール部 |
昭和五十二年、野田貢夫妻の御尽力により創部しました。最初はグランドもなく、部員も5〜6名と少なく、空いている広場を利用し練習を行っていました。現在はチーム名も「ファイブロータリー」と改名し、監督永田忠男、コーチ染田忠璋氏を中心に、五ッ又第五児童遊園地、高階北小学校グランド、公共広場等で練習を行っております。川越市にも登録し、春季大会、市民体育祭大会等に出場、又近年は五ッ又まつりの模擬店を壮年ソフト部と協力して出店し、部員をはじめ地域の方々との触れ合いを大切に活動しています。
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五.五ッ又親和会 |
昭和五十一年十月に当時の南沢自治会長の肝煎りによって、老人クラブの結成準備が進められ、同年十二月五日に結成大会が開かれて五ッ又老人親和会が誕生した。大会において会則、年会費(千円)、竹野三松会長ほか副会長・会計・監査各二名、理事十六名の役員を選出、高階地区老人クラブ連合会に加盟することを決めた。
発会当時の会員は六十七名で、老後の生活を健全で豊かなものとし併せて高齢者相互の親睦と福祉の増進に資することを目的としている。
昭和六十年四月十四日に東後楽会館で創立十周年記念式典を川合川越市長をはじめ来賓四十三名と会員六十名が列席して実施した。
昭和六十一年四月一日から会費が月額二百円、年額二千四百円を年二回徴収に、新規入会時に助成金として千円を徴収する会則が一部改正された。
平成二年四月十五日に東後楽会館において創立十五周年記念式典を開催し、併せて五ッ又老人親和会の記念回顧誌『あゆみ』を作成し会員に配布した。会員も百名を超えて百三名に達した。
平成七年四月十六日に東後楽会館において創立二十周年記念式典を開催した。組織的には、会員数の変動などにより班制から部制にするとか、サークル活動の盛衰などにもより変更を行っており、最近では総務部、厚生部、保健体育部が事業部として置かれ、保健体育部に所属するサークルとしてゲートボール部が活動している。
昭和五十四年から数年前まで廃品回収を総務部が中心となって実施して収益を挙げ運営資金増と地域の美化に貢献したが、会員の高齢化のために継続が困難となり中止のやむなきに至った。平成二年四月一日に、六十代の会員加入が少ないために会則を改正し、会の名称から老人を削除し五ッ又親和会とした。 平成十二年四月の会員七十四名。
五ッ又老人親和会会長は次のとおり
初代 竹 野 三 松氏 昭和五十一年十二月五日から
二代 源 智 富氏 昭和五十三年四月二十九日から
同氏は現在 五ッ又親和会顧問 です。
三代 長谷川 福 平氏 昭和六十一年四月一日から現在
同氏は現在 川越市老人クラブ連合会副会長
川越市老人クラブ連合会高階支部長
五ッ又自治会相談役 です。
最近における五ッ又親和会の主な活動状況は次のとおり
新年親睦会と年男年女に記念品贈呈(毎年)
敬老の日に全会員に祝品を配布(毎年)
ゴミゼロの日に協力活動(年二回)
五ッ又自治会の行事、五ッ又祭り、体育祭、グランドゴルフ大会などの手伝いと参加
川越市老人クラブ連合会および同高階支部の行事に参加
近隣の老人クラブ等と、ゲートボール交流
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