主な出来事
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一.五ッ又自治会館の建設 |
自治会を設立しても、集会・会議などは、役員の自宅や、林の中で行っていました。昭和四十二年五月、五ッ又地区内の集会所建設にあたり、土地所有者の加藤氏のご厚意により、土地の借地期限も無期限にて借用し、建設の面では松本工務店の特別のはからいで格安に建設していただきました。
資金面では、自治会の繰越金と自治会会員の均等割りの賛同により計画、七月に平屋二十九.二uが完成しました。昭和四十四年二月には、手狭のため二階部分(三十九.六u)を増築しています。
このようにして、自治会員の憩いの場・集会・会議などに利用されてきましたが、徐々に老朽化がすすみ、床がぬけたり、雨漏りがしたり、そのつど役員が修繕をしながら使用してきました。
昭和六十一年四月の第二十四回定期総会で、五ッ又自治会館の建設建て替え問題が提案されましたが、論議のすえ「建設準備委員会をつくり、調査・検討すること。全会員に説明し納得してもらうこと。」になりました。自治会ではさっそく役員会をひらいて、建設準備委員会を十五名(増田会長・小野寺・白須・星野・工藤・清水・中沢・秋本・重光・岡本・山田・片岡・惣滑谷・鳥羽・古林=敬称略)でスタートしました。
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建設準備委員会の仕事は、建設計画の作成、土地および場所の確保、建設資金の調達、建設規模と着工から完成までの概要を検討することです。
建設用地は、地主さんを訪ねて東奔西走しましたが、いずれも快諾をえられず、最終的に加藤氏(砂新田在住)のご好意を得て、現地での建て替えとなりました。
建設資金は、約二千万円で県・市からの補助金五百万円、自治会員の協力で積立てる。(八百世帯・一世帯三百円=五年間)会員有志・役員OB有志などからの寄付金、および不足分は自治会運営を節約し積立てました。
建物の構造は、木造二階建て延べ床面積百六十三.二四u、一階は小会議室/二階は大広間となっています。
建設準備委員会では以上の要件を決めて、各二十九地区の全自治会員へ、建設建替説明会を十月二十五日から十二月十四日まで(三十回)各地区会を開いてもらい、建設準備委員全員が分担して行いました。
昭和六十二年二月十五日、五ッ又自治会は、会館建設のための臨時総会を開催し、賛成多数で可決していただき、四月の定例総会を経て、設計を貫井一級建築事務所に依頼しました。
七月に一般競争入札を行い松本工務店に決定、九月に着工され昭和六十三年一月に完成しました。建設のための借入金(武蔵野銀行/一千五百万円)についても、会員のご協力を経て、平成三年三月で完済、当初五年計画を四年で返済することができました。
自治会員の教養、文化、親睦の向上、会合、集会、催事などの拠点施設として、広く利用されています。
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二.市水道の設置 |
井戸水から市水道に 五ッ又地域が分譲された当時は、水道もなく生活に必要な飲料水・生活用水は、井戸水を使っていました。井戸が一箇所あり、地下水をくみ上げて各家庭に配水されていました。この井戸もよく故障しました。少ないときでも月に三回、多いときには五・六回も故障し、断水のため各家庭は途方にくれたものです。井戸の修理も、役員の石川氏ほか主婦の皆さんのお手伝いを願ったりして大変でした。
自治会の世帯数も月ごとに増えてきて、井戸水もたりなくなってきましたので、土地会社に要望して、百五十尺(四十五m)の大型井戸に掘り下げてもらいました。それでも相変わらず故障が多く、昭和三十九年に自治会の中に市水管理委員会(勝目委員長)を設置し検討することになりました。役員改選で新たに市水管理委員長に長谷川福平氏が選出され、三ヶ年計画で市水道設置のための積立(一世帯三百円)をすることに決定し、動き出します。当時は五十世帯でした。
昭和四十一年には中央通り(五ッ又自治会館前の市道)に市水道管が配管されることになりました。同時に私道についても配管される事になりましたが、川越市の予算では全額市負担はできないと言うことで、いままで積立てた全額を市に納付して、水道管を敷設してもらうことになりましたが、自宅所有地内の配管工事費用は各自負担にて設置しました。このようにして、この地域の水道施設は整備されてきたのです。工事の完了に伴い清算すると共に、全関係者に記念品を贈り、委員会は解散しました。
地域内の消火栓については、井戸水ではどうにもなりませんので、地元消防団および市消防本部に要望し、勝目氏(四区)・大沼氏(十区)宅前に防火貯水槽を設置し、いざという時の備えにしました。現在でも、この地域は区画整理されておらず、道路幅もせまく、緊急時の火事・災害などは消防車・救急車がやっと通れる道幅です。道路に夜間や長時間の自家用車などの駐車はやめましょう。
*昭和四十年に現在の十一区・十二区(近藤建設の分譲住宅)には、市の水道が入っていました。
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三.下水道組合・自治会下水道部設置 |
五ッ又地域が開発造成されたといっても、道路、上下水道、雨水など公共的施工はほとんどなく、各自にて対策をよぎなくされていました。下水道においても、各家庭で吸込槽を設備し、バキュームカーによる汲取りを月に一、二度おこなっていました。自治会は昭和五十三年四月下水道促進委員会(南沢会長)を設置し、下水道導入の促進、生活環境の改善を図ることになりました。
昭和五十六年四月下水道組合(古田組合長)六百二十世帯を発足させ、毎月三千円を積立して備えました。市との話し合いで、昭和五十七年一月より埋設工事を行うことになり、昭和五十八年度末には二区、三区、四区の一部、五区を除いて、使用可能となりました。受益者負担金は、積立てた額で支払われました。
下水道組合の解散により、昭和六十年二月、自治会下水道部が未配管地区を引継ぐことになり、担当地区協力委員(田中、広田、宮田、紀井野、中沢、大川、白須=敬称略)を決めて取組むことになりました。
この地域は、五ッ又が開発造成された当初の地域であり、不在地主が数箇所点在し、極めて困難な部分が残っていました。市側は、道路工事をする関係もあり、私道については分筆・採納(市道)にすることが前提でした。度重なる対市交渉や、署名を集め陳情する一方、居住している世帯は必ず分筆・採納をしてもらい、不在地主を探し求めたり、連絡をとったりしました。
昭和六十二年九月、市議会議員とともに、未配管地区の三十五名が市役所の市議会・第二委員会室におしかけ、岡島市議会議長・澤田副議長などに会い、直接困っている状況を切々と訴えました。平成二年十二月より工事が開始され、翌年三月には工事が完了しました。
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四.山車・お神輿について |
現在も隆盛な五ッ又まつり。この行事が誕生したのは、いつ頃のことなのでしょうか。今から二十四年前の昭和五十二年、五ッ又二区の建築業、川村 稔氏により山車が寄贈されました。今も現役のこの山車は、車の車体に上物を乗せた物で、狭い路地でも入り込める様に車輪のシャーシー部分に工夫がされています。
この一台の山車と樽神輿の寄贈を契機として、山車と樽神輿が景気よく町内を練り歩きました。これが五ッ又まつりの本格的な始まりと言えるでしょう。その後地域の子供たちが祭りに参加し、故郷五ッ又の良さを認識してもらえたらという、自治会長の南沢氏を始めとする役員の熱意により子ども神輿の購入話が持ち上がりました。そして昭和五十四年建築業永井氏を中心として、永井、南沢、松本の三名の段取りにより、東京浅草橋の宮本神輿店から、本格的な子ども神輿を購入することになりました。
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