五ッ又の歩み 発展期 |
一.五ツ又地区内外の変化 |
昭和三十九年、東京オリンピックの直前になり、当時電電公社の川越交換施設(現新宿五丁目のNTT施設)ができてから電話の自動化が進展し、当地域内にも電話が引かれ始めた。共用井戸の故障に悩んでいた分譲地の会員を中心に川越市の水道給水を働きかけ、昭和四十一年から徐々に市の上水道が利用可能となりました。
これをきっかけに、分譲地内外は家屋の新築ブームとなった。東から北西に分譲地を取り巻いていた林も、南から西の畑もどんどん宅地化されていった。商店もあちこちに開店された。
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2−1 区 |
鳥茂=焼きとり・食堂 (現 川村文具) 太陽薬品(元 前多薬局・現 クリエイト) カトレア美容室 理容ノウブル(現 エイト) |
3 区 |
福田屋=食品・日用雑貨・酒・たばこ |
4 区 |
坂上肉店=肉・惣菜(転出) |
6 区 |
かさい商店=食品・日用雑貨(転出) |
9 区 |
滝山商店=呉服・小間物・たばこ(転出) |
12 区 |
魚政鮮魚店(外山さん四十一〜四十八年頃) |
14−1区 |
松本商店=八百屋(現 ホワイト急便) |
15 区 |
関本商店=食品・日用雑貨 |
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昭和40年代前半の自治会館周辺の様子(クリックで拡大)
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二.五ッ又自治会の独立 |
この他、現在の桑田商工(畳の作業場)に村本スーパーがあり、肉・魚・野菜・パン・菓子等を販売していた。 近隣の空地(現 高階生鮮市場北側の畑)を自治会が借りて、夏休みには子供のラジオ体操や納涼盆踊りが行われた。 また、女性たちのバレーボール練習や子供の遊び場として活用されていた。
五ツ又公民館と言っていた時代の自治会館
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自治会員の増加と行事等の活動が活発となり、集会所が狭くて不便なため、四十四年四月に増改築を実施した。玄関、階段、二階集会室、一階物入れ、面積三十九.六平方米ですが、当初の土台がブロックの簡易なものだったので修理して費用八十五万円(三回払い)を要した。
自治会内の同好者による軟式野球クラブもできて、近隣のチーム等との親善試合を行うなど自治会内外の親睦に一役買っていた。毎夏行う納涼盆踊りも恒例となり、踊りの輪が大きくもっと賑やかになるようにと、栗田氏(現三区)から太鼓の寄贈があった。
砂新田地域としてのお付き合いもあり、当自治会においても婦人部と愛育班員を設けて、教養を高め、募金や物品販売の利益による福祉活動を行い、また健康の保持・増進のため、妊産婦・乳幼児の家庭訪問や講習会・検診への協力など女性が活躍された。
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三.高階地区の発展状況 |
年 代 |
人 口 |
世帯数 |
昭和30年 |
5,779人 |
1,034世帯 |
同 40年TD>
| 11,861人 |
2,954世帯 |
同 50 |
37,336人 |
11,038世帯 |
同 60年 |
45,040人 |
14,121世帯 |
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特に、土地区画整理が完了した藤間(国道二五四号線と東上線にはさまれた清水町・熊野町・諏訪町・稲荷町・藤原町)の発展が突出している。砂新田地域の区画整理は、昭和四十三年十二月から始まり五十一年四月まで七年をかけて、旧川越街道から西側の不老川以南の一部(現在の砂新田一丁目から四丁目)が完成した。事業に着手の段階で、五ッ又自治会にも参加を呼び掛けられたが、反対の意向が強く不参加となった。
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小学校は高階小学校一校であったが、昭和四十五年四月に高階南小学校、四十八年四月には高階北小学校が開校し、五ッ又自治会内の学童は高階北小学校へ通うこととなった。その後も高階西小学校が四十九年、寺尾小学校が五十三年に開校している。
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中学校も高階中学校一校のみで増改築も追いつかず、プレハブ教室によりしのいでいたが、昭和五十二年に寺尾中学校、五十六年に砂中学校、六十年に高階西中学校が開校した。
昭和四十七年九月には川越市の高階支所(現 出張所)が公民館と消防分署との合築で落成したが、新築前に使用していた高階村役場時代からの建物(昭和十二年建築)は、木造洋館立てで懐かしく惜しまれていた。
砂新田内の各自治会と高階公民館共催の体育祭が、高階中学校や、高階北小学校校庭を使用して開催され、自治会対抗の競技などが行われていた。
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四.五ッ又老人親和会の誕生 |
南沢自治会長の尽力により五ッ又老人親和会が、昭和五十年十二月五日に五ッ又公民館(現 自治会館)において結成大会を開催し、会則を制定し役員を選出して会員六十七名で誕生した。
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五.自治会の活動 |
壮年ソフトボール部とママさんバレー部を自治会内の団体として支援する事になった。毎年、春にソフトボール大会を、秋には体育祭(昭和四十九年第一回)を開催することになった。夏の盆踊りには自治会役員が、舞台作りに苦労している姿を見かねて、永井喜三氏(四区 永井工務店)が楼に使用する鉄骨製の支柱の寄贈があった。
新開地に育つ子供たちが夏の思い出となるようにと、川村建設(二−一区 現 川村文具店)が、樽神輿と山車を作り寄贈してくださり、夜の盆踊りと共に盛大な五ッ又まつりが繰り広げられる様になった。さらに、立派な子供神輿を購入しようといった気運が持ち上がり、役員の尽力により、会員の寄付金と祭り費用の節約によって子供神輿が購入された。鉄骨製の楼の支柱や山車、御輿は、現在も毎年使用されて、五ッ又祭りを盛り上げている。
下水道がないため、各戸において吸込槽を設けて雑排水を、バキュームカーによる汲み取りでトイレを処理していたが、使用年数を重ねると十分に機能しない等で下水道の早期導入の声が高まり、昭和五十三年四月に下水道促進委員会を設けて川越市と折衝を行った。昭和五十六年四月に下水道組合を発足させ、六百二十世帯が毎月三千円の積立を行い、受益者負担に備えたり、私道部分を各自が川越市へ採納する等で組合役員・組合員ともに多大な苦労を重ね下水道が完成した。
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これまで空地を利用していた遊園地でしたが昭和五十八年三月に川越市が土地を借り上げ遊具などを設置し、自治会で管理する五ッ又第五児童遊園地(一、九七三平方米)が完成した。開園式を五月五日の子供の日に実施した。 テレビの受信障害の対象として東京電力の助力を得て、昭和五十八年四月に五ッ又テレビ共同受信組合を設立(二十一・二十二・二十三区を除く)、テレビの有線アンテナを共同で引くこととなった。設置費用・電気代等に組合員が年千円を拠出したが、三年間でひとまず完了した。現在潟eプコケーブルテレビが管理している。昭和六十年には五ッ又女子ソフトボール部が創部され、現在も活躍中である。
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